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内気な性格の自分が『私』なのだと思い込んでいました

幼稚園の頃、私は周囲の大人からもよく『元気だね』
『いつもニコニコしている』と言われる程に活発な子供でした。

小学校に上がり、様々な事を勉強して楽しい毎日。

自分で言うのもなんですが成績は学年でも良い方で、
先生からも模範生としてよく褒められていました

けれど小学4年生の時
算数の授業で手を挙げて答えを発表した時です。

たまたま答えが間違っており
クラスメイトのやんちゃな数名の男の子達に笑われてしまいました。

彼らは悪気は無かったのだと思います。

しかし当時の幼い私には『自信満々で答えたのに恥ずかしい』
『失敗したら笑われてしまう』というトラウマ
が植え付けられたのです。

それから、私の性格は真逆に変わりました。
通知表の内申にも【積極性に欠ける】と書かれてしまう程に・・・

それからはずっとその性格は変わらず、
自分もその内気な性格の自分が『私』なのだと思い込んでいました。

当時の私にはそれが病気なんてとても思わなかったのです

17歳になりスーパーのレジで働きはじめ、
そこまでは問題無かったです。

勤続年数も長くなり、レジのリーダーを任される事になりました。

それに伴い新人を教育する為の研修を受けに行くことになり、
知らない他店舗の方々と話し合う場が設けられ
意見を求められた瞬間に頭が真っ白になり、
何も答える事が出来ず、泣き出してしまいました。

『社会人として情け無い』そればかりでした。

会社でも電話を取る担当は決まっていたのですが、
担当が不在の時は手の空いてる人間が取る決まりになっていました。

その電話も鳴っていても『もし、私の受け答えが間違っていたら・・・』
そう頭によぎり、電話を取る事もままなりませんでした。

とにかく発表の場では
・失敗したら笑われる・笑われる事が恥ずかしい
・素っ頓狂な事を言っているのではないか
・自分の答えは間違っているのではないか

と、考えるようになっていましたが、
その会社で別のストレスにより長期休暇を余儀なくされた際、
心療内科にかかったところ【社交性不安障害(旧・社会性不安障害)
とも診断されました。

その診断をくだされた時『あぁ、これは病気だったんだ、治せるんだ』
と思っただけで大分心が楽になりました

今は一ヶ月に二回、ゆっくりとカウンセリングをして、
4年生の頃の失敗を受け止め取り除いています。
特にお薬は使用していません。

少しずつ、少しずつですが前より表情も明るくなって、
話しかけられるのを待っていた事が多かった私が
自ら人に物を尋ねたりする姿に母も喜んでくれています

焦らず、ゆっくり、人に元気を与えられるような以前の私に
変われるよう頑張りたいと思っています

ぼやいているだけだとわかると、キチガイをみるような目で周囲はみてくる

わたしは、正式には診断されていませんが、
アダルトチルドレンだと自分を認識しております。

社会適応障害は一度精神科で診断されたことがあります。

アダルトチルドレンタイプもありますが、
簡単にいえば、周囲の人をイライラさせたり、
自分の行動範囲が制限されている病気です。

私の場合は小学校低学年で止まっていると思います。
会社の人間国宝とうたわれている先輩にも言われました。

お前が何を悪い巧みしようがぼやいているだけだ、
唯一お前の良いところ、やさしいところだと言われました。

本当にその通りでした。会社でも、社会でも、相当苦労しました。
ぼやいているだけだとわかると、キチガイをみるような目で周囲はみてくるのです。

街中を歩いているだけでも、キチガイ的な反応をされました。
ほんとうに死にたい心からそうおもいました。

生きている意味があるのかとおもいました。
いっそのこと、今まで馬鹿にしてきた奴らを殺して、俺も死ぬ、本当に思いました。

しかし現実にはそれはできずに今は休職して静養をしております。

自分がそれだけのことしかしてこなかったとはいえ、
これは罪としてほんとうにあまり大きいと思います。

今でも外出するときは本当に人の視線や反応を伺います。

なんで、休職をしているのにこんなに神経をつかわなくてはいけないのか、
本当に嫌になります。

アダルトチルドレンがここまで苦しいものだとはおもいませんでした。
家での生活、文章力、理解力はあると思います。

本当に厄介な体です。
ですが、その範囲で幸せをこれから見つけていこうと思います。

明るく、ポジティブに!

一番最初におかしいと感じたのは名刺交換でした。

私はホテルの専門学校を卒業し、ホテルで4年程働きました。
そのあと寿退社をし、家事との両立の為に
事務の仕事を選びまた5年ほど働きました。

事務の仕事は初めてだったので、経験が無くても出来るような
受付や来客応対がメインの事務を任されました。

お客様にお茶を出す。
ホテルで毎日それを仕事としていました。

事務のお仕事を始めてから3年ほどは普通に出来ていました

ところが主人が転勤になり、私も仕事を辞め新しい土地
新しい職場へと移りました。

今までの事務とは打って変わって、自分のパソコンを持ち、
名刺をもらい、自分の担当のあるなんともやりがいのある仕事になりました。

そうなった途端、お茶出しが出来なくなってしまったのです。

一番最初におかしいと感じたのは名刺交換でした。
極度の緊張でした。

初めての名刺交換
専門学校で勉強したことしか無かったことで、
手順とか考えて手に汗をたくさんかきました。
それと同時に信じられないくらい手が震えたのです。

そのあとはもちろん名刺交換の時は手が震えたし、
お茶を出す時も手がふるえました
お客様相手になると震えたのかもしれません。

震えることが怖くて、恥ずかしくて、
『あっ、お茶出ししなくちゃならない』という
タイミングを見計らってトイレに立ったりして逃げました。

お客様が見えるとお茶出しのことを考えて、
心臓が飛び出る位ドキドキして仕事が手につきませんでした。

私が逃げることで他の人がお茶出しを
しなくちゃならなくなることに罪悪感を感じました。
でも誰にもこのことは打ち明けられませんでした。

これではいけない、逃げてばかりはいられないと精神科に行きました。
そこで『社会不安障害』と診断されました。

まだ若いから薬は飲まない方がいいと言われました。
場数を踏んで慣れるしかないと。

慣れるよう回数をこなせ!!と頑張りましたが、
一向に恐怖は取り除かれません。

今度はカウンセリングを受けました。

そこで言われたのが『震えて何が悪いんですか?』と。
この一言が私を少し救いました。
そうかー。震えてもいいんだと。

そして、何でも話せる同僚に話してみました。
その友人は『どうしてもっと早く言ってくれなかったの。
気付いてあげられなくてごめんね』と言ってくれました。

これでまた救われました。
分かってくれる人がいるんだと。

今は出産、育児で仕事をしていませんが、
今後仕事をする時は出来ればお茶出しはしたくないなと思ってます。

仕事を辞めてから5年経過してるけど、
また震えたらどうしようと思う事があります。

でも、戦って自分に勝っていかなくてはならないことだろうと思います。

他人から見ればそんなことでどうして震えるの??
と思うことだけど、自分だってどうして震えるのか分からないのです。
他の人に打ち明けてみると気が楽になることは間違いないです。

温厚だと思っていた教授が、急に人格否定をしてきたショックから「適応障害」になりました。

教授」とあるように、大学時代から院へ上がったときのこと。
今まで温厚だと思っていた教授が、急に人格否定をしてきて、
そのショックから「適応障害」になりました。

今はもう回復しており、いやな過去だった、程度です。

当時学生だった私は、その日を境に大学へ行けなくなりました。
家族は60近い父親と高卒で社会にでていた妹。母はすでに他界。

大学から実家までは1000km以上離れており、
そう簡単に帰れる場所ではありませんでした。

しかし父親は大学へ行けなくなったこと、
その出来事を涙ながらに連絡した日からすぐに駆けつけてくれました。
(当然1日はかかりましたが)

でもそれが最初の心の安定に繋がったことは間違いないと思います。

その後父とともに大学の相談支援センターへ行きました。
ただそのときはすべてに絶望しており何を相談したか内容もよく覚えていません。

そして大学院を中退することになりました。

流石にもうあの場所にはいけない、
ストレスの源から逃げたほうが生きるうえで必要との判断からです。

実家に帰ってからは病院探しでした。
これは父親が探してくれました。
結果として3つ目の病院が大きなはずれだったと思います。

さて、何がはずれかというと、その先生は「病気ではない」と診断したからです。
3ヶ月程度経っていたときでしょうか。

そのときは正直うれしかったです。
ああ、自分は精神病ではなかったんだ、と。

その後社会に復帰するため資格の勉強をし、
その資格を生かした特殊な仕事にすぐに就くことができました。
(特殊な職業のため伏せますが、いわゆる国家公務員2種のひとつです)

ですが、まだ仕事に就くのは早かったようで、
就いて2週間後、先輩のちょっとした注意が
あのときの記憶をフラッシュバックさせ、涙がとまらなくなり、
夜には過呼吸となり、もう職場に行くことができなくなりました。
あの時耐えられていたなら今頃こんなことを書いていないでしょう。

さて再び実家に戻り、2、3違う病院を経て、
今度はまともな精神病院に入ることができました。
結果、ここの先生に救われることになります。

当時で覚えていることは「焦らなくていい」ということだけですが、
それが一番大切だと思います。

半年程度通院し、先生の勧めで1ヶ月入院し、
その後通院しながらその病院が経営する授産施設で2年近く働きました。
この2年の間に自信を取り戻すことが出来たと思っています。

失われた貴重な時期の3年間とは思いますが、
結果として精神的に成長できたのかな、と思います。

もちろんその間何も考えずに行動していたわけではありません。
焦りもありました。就職はどうすればいいのかという迷いや不安もありました。

ただ、こればかりは時間をかけなければならないと思いますし、
焦って就職した結果2週間で退職という出戻りも食らいました。

精神的な成長とは、その間に出会った思考があります。
それはブッダの思考でした

(宗教ではなく、あくまでブッダ本人の教え。
この回復期は宗教に嵌りやすい時期だから気をつけなさいと
先生に忠告されたので、特に注意しました。)

病院の先生の言葉を聴き、それを咀嚼し理解し、
そして授産施設で行動に移してみることも大切な時期だったと思います。

今ではもう怒られたり注意されることで
フラッシュバックすることはなくなりました。

たまにこう思い出しては、精神的に成長したなぁと思えるようになりました。

ちなみに薬は5年たった今でも、
飲んではいますがそろそろ止め時だと先生がおっしゃっていました。

逆に言えば5年経てば解決する病気、ということです。
この5年は、長いようであっという間だったような気がします。
焦らないことが一番です。

SAD発症から4年経過した今、販売の仕事に再就職をしています

私がパニック障害、社会不安障害(SAD)と診断されたのは、
丁度今から4年前の6月のことでした。

当時私は22歳、パソコン関係の仕事をしていました。

ある日仕事中に過呼吸のような症状、動悸、凄まじい焦燥感に襲われ、
思わず職場から飛び出してトイレにこもり
落ち着くのを待つしかありませんでした。

その後も過呼吸のような症状はなくなったものの、
突然襲ってくる動悸、叫びだしたくなるような焦燥感を何度も味わい、
たまらず内科の診察を受けました。心臓の病気かと思ったのです。

すぐに不整脈の検査やレントゲン撮影など
幾つかの検査を受けることになりました。

ところが検査結果を見た先生に言われた言葉は…
「うちではお薬は出せるけどあなたの症状を改善することは出来ない、
心療内科を受診してはどうか?」でした。

すぐに近くの心療内科の予約をとり、
カウンセリングや簡単な問診を受けた後、
社会不安障害とパニック障害であると診断されました。
仕事のストレスが原因だろう、とも言われました。

正直、目の前が真っ暗になるほどのショックを受けました。
精神病?通院が必要なのか?仕事はどうなるのか?
不安でいっぱいな気持ちでした。

担当の先生とも相談し、
SSRI抗不安剤を2種類飲み続けることになりました。

お薬を飲むと不安感や動悸は治まるものの、外に出るのも怖い、
安心出来る誰かがそばにいてくれないと不安…

毎日薬と薬を飲むための水をカバンに常備し、
いつ発作が起こるかと緊張する毎日でした。

だんだん外に出るのが怖くなり、
結局仕事を自主退職することになりました。

貯金も少なく、このまま病気が治らなかったら…
という気持ちで毎日が本当に憂鬱でした。

家族の支えがなければ自ら命を絶っていたかもしれません。
それくらい毎日が辛かったのです。

投薬を始めてから1月程度は何も変化はなく、
このまま病院に通っていて意味はあるのか?とも考えました。

投薬とカウンセリングを始めて半年ほど経過したころから、
だんだんと外での動悸、息苦しさが少なくなってきたような気がします。

1年半ほど治療を進めた結果、抗不安薬の服用はかなり減り、
薬を飲まなくても外出が出来るようになりました、本当にうれしかったです。

SAD発症から4年経過した今、私は現在販売の仕事に再就職をしています。
朝9時から18時まで人と接してばかりの毎日です。

今は全く発作は起こりません、先生と相談した結果、
もう薬は飲んでいません。通院もしていません。

お守り代わりに一応いつもカバンに抗不安薬は入っていますが(笑)

外に出るのも怖い、人と接するのが怖い、
そんな風に思っていたあの頃の自分が嘘のようです。

社会不安障害パニック障害は本当に難しい病気で、
なった事のある人にしかこの辛さは分からないと思います。

ですが、諦めずに治療を続けることによって
絶対に改善する日が来ると思います。

この文章を読んでくれたあなたが
笑顔で過ごせる日が来るように祈っています。

10代の頃に社会不安障害(SAD)と診断。「対症療法」を試してみました

10代の頃に社会不安障害(SAD)と診断され、
何年もとても辛い思いをしました。

人の目がすごく気になって普通に歩いていても
自分の歩き方は変じゃないかな」と思ったり、
笑い声がしただけで「私のことをみんなが笑っているんじゃないのか
と余計にへこんでしまいました。

それからは、精神科でもらった抗不安薬を常に持っていないと
不安でたまりませんでした。

しかし、薬の副作用で日中でも眠くなってしまうので
仕事に大きな影響を及ぼしてとても困っていました。

そんな時に偶然目にした「対症療法」という
社会不安障害(SAD)治療法に興味を持ち、
実際に試してみることにしました。

私はレジなどで会計した後におつりを貰うときに
手が震えてしまう
ことがとても気になっていたので、
対症療法でそれを改善しようと思いました。

あえて手が震える場面を頻繁に経験することによって
徐々にその場面になれていきました。

こうすることで少しずつ手の震えがおさまり、
苦手な場面でも過度に緊張せずに乗り切ることができるようになりました。

友達とのランチ会もあえて増やし、
人前で食事を食べることへの抵抗感を少しずつ消し去っていきました。

それらを乗り越えると、自分に自信がつくようになり、
普通に歩いている時に人の視線が前よりも
気にならなくなった自分がいました。

たまに笑い声が聞こえたり、じっと見られると
不安になってしまうこともまだありますが、
「ここで悪く思われても笑われてももう二度と会うことのない関係ない人だ」
と自分に言い聞かせることで気持ちをうまく切り替えられるようにもなりました。

同じように社会不安障害で苦しみ方たちに知ってほしいのは、
病気は治せるということです。

時間はかかるかもしれませんが、
自分の心に無理のないように病気と向き合っていきましょうね。

妊娠中のパニック障害で4年間引きこもり生活

私がパニック障害と診断されたのは
33歳の初夏お腹に三人目の子がいた時でした。

パニック障害と診断されるまでさほど時間はかからなかったのだが、
なんせ妊娠中の身なので投薬治療ができないとゆう。

投薬治療はお産の後にしましょうと頓服の安定剤が処方された。
これが当時の私には唯一の薬だった。

薬を飲むと一時的に眠くなり少しの間不安からは解放されるが、
薬が切れると時と場所を選ばず発作が起こった。

こうなると乗り物にも乗れなくなり殆ど外に出なくなってしまった。
無事お産を終え、薬をもらいになんとか病院へ行くも
授乳中は無理とのことで、またもや治療開始は延期。

その後、症状はますます悪化し、
子どもの学校行事にも参加できなくなってしまっていた。

一緒にドライブや映画に行きたがる子どもたちにごめんねと謝る日々。
学校行事を夫に代わってもらい迷惑をかける日々。

自分の存在価値についても考えました。

子どもの成長は見て行きたいので、死にたいとは思わなかったけど、
いつ死んでもいいやと思っていました。

そうやって家に引きこもったままようやく赤ちゃんの卒乳を迎えた。
子どもは1歳半、初めてのパニック発作から2年が経っていた。

やっと投薬治療開始、パキシルを処方してもらった。
すぐにとはいかなかったが、付き添いがいれば
近くのスーパーには行けるようになった。

もう少したって歯医者と美容室にもいけるようになった。
投薬開始から1年後くらいにようやく付き添いなしで外出できるようになり、
学校行事にも参加できるようになった。

徐々にできることを増やしていき、投薬開始から二年後にはパートも始めた。
その頃には乗り物にも乗れるようになり
今では98パーセント元の生活を送っている。

実は何を隠そう、治療を始めて4年経った今もまだ薬を飲んでいる。
今は薬の量も減っている。

でも以前のように、本当に治るのだろうか?とゆう心配はしていない。
だって7年前の私と比べると今の私は全然違うんですもの。

こんな日が来るなんて思ってませんでした。
なので必ず薬を飲まなくても発作を思い出さない日が来ると信じて
毎日を過ごしてます。少しでもお役に立てれば幸いです。

アダルトチルドレンで、極度の対人恐怖、嫌われることが怖いです。

私は20代の女です。
働いても、人が怖くてすぐにやめてしまいます。

アダルトチルドレンで、極度の対人恐怖、嫌われることが怖いです。
高校2年生で鬱になり、そこから7年間鬱に苦しみました。

23歳のころ転機があり、良きカウンセラーさんに出会え、
そこで、鬱が和らぎ、今では鬱はほぼよくなりました。

しかし、社会不安や対人恐怖、軽いですがパニック障害と、
これからやっと向き合っているところです。
自分に今起こっていることがだんだん分かってきました。

少しでも、同じようなことで悩んでいる方の参考になるように、
私の経験を書きますね。どうか、力になりますように。

私は、幼いころから、自分を出せない子供でした。
両親の仲が悪く、父は借金、浮気を繰り返し、
家に生活費を入れないような人でした。

母は懸命に働いていたため、今思うと、必死だったのですね。
余裕がなくいつも怒っているような印象があります。

母の懸命な姿に、子供ながら母を助けたいと思い、
わがままは言えませんでした。

甘えにいっても、邪魔くさそうにされ、
それを感じた私は余よけいに駄々をこねる。

愛情を感じたくて、抱きしめてほしくて駄々をこねても、
母は怒るだけでした。

母は私のことが嫌いなんだ。私が良い子じゃないから嫌いなんだ。
兄弟は上に3人いて、わたしは末っ子でした。

しかし、年が一番近くても8個離れているので、
物心ついたときにはみんな年頃で、友達と遊ぶということがほとんど。

家にもほとんどいませんでした。私が遊んでほしいとねだっても、
みんなあまり相手にしてくれませんでした。

そこで、いよいよ本格的に孤独を感じたのですね。
その時点でたった3歳ごろです。もう、生きていたくありませんでした。

(カウンセラーさんから聞いたのですが、3歳までが肝心らしいです。
3歳までに、安心感を得られなかった人は、アダルトチルドレンになり、
その後生きにくいと。)

誰も私に興味がない。私は誰にも愛されない。
周りから相手にされない私は、本当の自分を押し殺すようになりました。

それから、幼いころ私は、自分を愛してもらうために、
家の手伝いを進んでするようになり、
いつも笑って、元気で明るい良い子を演じました。

心では死にたいと思っているのに。

こんな自分だったら愛されるかな?と、嘘の自分を演じ続けました。
家族だけでなく、友達の前でも、本当の自分ではなく、嘘の自分。

本当の自分が出せないんです。

だって、幼いころ、本当の自分で生きていたけど、愛されなかったから。
だから、そのままの私では愛されない。
演じている私でしか、人前に出せないのです。

そんな生活をしていたら、本当の自分はどこかに消えました。
そして、感情もなくなりました。

でも、どれだけ消えても、やはり感情は心のどこかにあるので、
たまに気が狂ったように発狂します。

それもひとりで。なので、家族は何も知りません。
ある日、プツンと何かが切れて、うつ病になりました。

そして、良きカウンセラーさんと出逢い、
2年目にして、回避性パーソナリティ障害と分かりました。

人格が分裂することもあります。押さえつけすぎた本当の自分、
本当の感情が、コントロールできなくなるとヒステリーを
起こしたように出てくるのです。

あまりにもひどい時はなにを言ったか、何をしたか覚えていません。
そんな私ですが、薬では何も解決しないと、身にしみて感じました。

7年間薬を飲み続けましたが何も解決せず、少し高いと感じましたが、
個人のカウンセラーさんに思い切って相談すると、
出会って1か月で断薬に踏み切り、成功し、
半年で鬱症状が一気に改善に向かいました。

時間はかかりますが、間違いなく、
精神疾患の原因がはっきりすると思います。

私のカウンセラーさんは1時間5000円です。
1回無料お試ししてみて、相性がいいと感じたので、週1でお願いしました。

働いていないのでお金はありませんでしたが、
働けるようになったら返すと説得し、母に借りました。
今では、決して高くないと断言できます。

薬だけでは、症状は改善しません。
どうか、カウンセラーさんを探してください。

これを読んでいる方、たくさん苦しんで傷ついて今まで生きてきたと思います。
本当に本当に、生きてこれたことがすごいと思います。

どうか、自分を幸せにするような道に進んでください。
私もまだまだ、戦っているところです。

一緒に、この生きにくい世の中、生きていきましょうね。
いつか必ず、出口があると信じて。

過敏性腸症候群で常にトイレに行けない事を恐れ、極度の緊張感から下痢を繰り返しました

私は適応障害と心療内科の主治医から伝えられるまで、
漠然と心と体の状態がおかしいという感じでした。

社会にでるまでの10代、特に中学生の時は過敏性腸症候群に悩まされ、
常にトイレに行けない場合どうすればよいのだろうという
極度の緊張感から下痢を繰り返しました。

当時は過敏性腸症候群という言葉すらも分からずに
苦しい日々であったと思い出します。

今は過敏性腸症候群の症状は改善されましたが、
しかし現在でも外出時のふとした時にトイレに行けなければどうしよう
という緊張感を感じてしまう事はあります。

大学卒業後社会に出て会社勤めが始まりましたが、
ある時急に夜全く寝付けられない状態が何日も続き、
日中は眠気の影響で仕事にも支障が出ていました。

幸い私の異変に何となく気がついた上司から
何かあったのかと言われ眠れないと説明しました。

結果、上司また同僚のアドバイスで心療内科の通院を行い
睡眠導入剤を処方してもらいました。

不眠の症状は10年以上前から続いてますが、現在も薬は服用しています。

その後事情により最初の会社を退職し、別の仕事に就きましたが、
昨今の雇用情勢もあり正社員に就けても長時間労働で心身が疲労し、
現在は非常勤の仕事を繰り返しています。

新しい仕事、特に未経験の業務を一から覚える場合
自分は人一倍時間がかかります。

そうしたプレッシャーや仕事覚えるのが遅いと言われたりもしました。

転職を繰り返しているうちに新しい仕事に対して極度のプレッシャーの結果、
朝の出社前に嘔吐したり食欲不振、不安などの要因が重なり
適応障害となり現在に至っています。

今はストレス社会で多くの人は心身共に
常に様々なプレッシャーを抱えていると思われます。

私は何とか早い段階で病院を受診出来ましたが、
適応障害うつ病などという病気はつい一人で
抱え込み悩んでしまう傾向
にあるのではと思います。

精神の病は自分の家族や話が分かる人に
自分の辛さや苦しさを話せる環境が一番大事です。

ストレスという物は完全に無くす事は不可能です。
そのためにはストレスを最小限に抑えるような環境作りが重要です。

自分の心と体とどう向き合っていくか短い文章ではありましたが、
自分の体験が少しでも役に立てれば幸いです。

PTSDで8年たった現在も、男性の大きな声には恐怖で震えます。

体調不良で会社を2日おやすみして出勤した際、
いきなりの剣幕で事実上の社長から呼び出され雇用形態の変更を告げられました。

その際、私は雇用契約があるのでそれは受け入れられないと告げると、
さらに激高して理不尽な言葉を浴びせ続けられました(恫喝)。

身長が高く、体格の良い男性からの威圧的な言葉に私はついに言葉を失ってしまい、
出てくるのは涙だけでした。

体中の震えがとまらず、涙もとまらず、いったん外へ出て
人事の担当者が出勤してくるのを外で待ちました。

人事の人が到着したら少し安心しましたが、
私の姿を見て何があったのかをすぐに察してくれました。

とりあえず、今日はいったん家に帰ったほうがいいとのことで帰宅しました。
何が起きているのかわからず、すぐにベッドへ倒れこみました。

そして、夕方ふたたび実質的な社長(恫喝してきた人)から電話があり、
輪をかけた恫喝が延々と続きました。もう、恐怖の電話です。

そして、私は言葉が話せなくなっていました。
そのことでさらに恫喝社長は怒りが増してきたらしく、
長い間話し続けていた記憶があります。

家族が帰宅してから、私はようやく涙ながらに事の経緯を
簡単に話すことが出来ました。

そして、人事担当から電話があり、これからのことを話しました。

もう、職場復帰することは絶望的だと感じましたが、
あまりにも理不尽で、私は何の落ち度もないのに、
このようなことになったことが納得できませんでした。

言葉が正常に話せなくなったことで、診療内科へ行き、
事の経緯を話し診断書をいただきました。
診断名はPTSD(心的外傷後ストレス障害)でした。

その診断書を提出したら、再び、恫喝社長から電話がかかってきました。
電話は留守番電話にして一切出られないようになりました。

8年経過した現在も電話(携帯電話は大丈夫です)は留守番電話にしたままです。
6年半、お局さまと称するひとからの執拗ないじめやセクハラパワハラにも耐え、
まじめに仕事をしていればいつかは報われると思ってきた結果が
このようなかたちになりとても残念でした。

医師からは訴訟を起こしますか?と尋ねられましたが、
当時の私の状態はその頃そこまでの気力が全くありませんでしたし、
満足に話すことさえ出来ない状態だったので、理不尽な自主退職となりました。

8年たった現在も、男性の大きな声には恐怖で震えます。
女性の(特に年配の人)話し声も苦手です。

現在は、少量の安定剤を症状の悪いときだけ服用するようになりましたが、
いまだにあの時の衝撃を忘れることが出来なく夢にも出てくることがあります。