ぼやいているだけだとわかると、キチガイをみるような目で周囲はみてくる

わたしは、正式には診断されていませんが、
アダルトチルドレンだと自分を認識しております。

社会適応障害は一度精神科で診断されたことがあります。

アダルトチルドレンタイプもありますが、
簡単にいえば、周囲の人をイライラさせたり、
自分の行動範囲が制限されている病気です。

私の場合は小学校低学年で止まっていると思います。
会社の人間国宝とうたわれている先輩にも言われました。

お前が何を悪い巧みしようがぼやいているだけだ、
唯一お前の良いところ、やさしいところだと言われました。

本当にその通りでした。会社でも、社会でも、相当苦労しました。
ぼやいているだけだとわかると、キチガイをみるような目で周囲はみてくるのです。

街中を歩いているだけでも、キチガイ的な反応をされました。
ほんとうに死にたい心からそうおもいました。

生きている意味があるのかとおもいました。
いっそのこと、今まで馬鹿にしてきた奴らを殺して、俺も死ぬ、本当に思いました。

しかし現実にはそれはできずに今は休職して静養をしております。

自分がそれだけのことしかしてこなかったとはいえ、
これは罪としてほんとうにあまり大きいと思います。

今でも外出するときは本当に人の視線や反応を伺います。

なんで、休職をしているのにこんなに神経をつかわなくてはいけないのか、
本当に嫌になります。

アダルトチルドレンがここまで苦しいものだとはおもいませんでした。
家での生活、文章力、理解力はあると思います。

本当に厄介な体です。
ですが、その範囲で幸せをこれから見つけていこうと思います。

明るく、ポジティブに!

温厚だと思っていた教授が、急に人格否定をしてきたショックから「適応障害」になりました。

教授」とあるように、大学時代から院へ上がったときのこと。
今まで温厚だと思っていた教授が、急に人格否定をしてきて、
そのショックから「適応障害」になりました。

今はもう回復しており、いやな過去だった、程度です。

当時学生だった私は、その日を境に大学へ行けなくなりました。
家族は60近い父親と高卒で社会にでていた妹。母はすでに他界。

大学から実家までは1000km以上離れており、
そう簡単に帰れる場所ではありませんでした。

しかし父親は大学へ行けなくなったこと、
その出来事を涙ながらに連絡した日からすぐに駆けつけてくれました。
(当然1日はかかりましたが)

でもそれが最初の心の安定に繋がったことは間違いないと思います。

その後父とともに大学の相談支援センターへ行きました。
ただそのときはすべてに絶望しており何を相談したか内容もよく覚えていません。

そして大学院を中退することになりました。

流石にもうあの場所にはいけない、
ストレスの源から逃げたほうが生きるうえで必要との判断からです。

実家に帰ってからは病院探しでした。
これは父親が探してくれました。
結果として3つ目の病院が大きなはずれだったと思います。

さて、何がはずれかというと、その先生は「病気ではない」と診断したからです。
3ヶ月程度経っていたときでしょうか。

そのときは正直うれしかったです。
ああ、自分は精神病ではなかったんだ、と。

その後社会に復帰するため資格の勉強をし、
その資格を生かした特殊な仕事にすぐに就くことができました。
(特殊な職業のため伏せますが、いわゆる国家公務員2種のひとつです)

ですが、まだ仕事に就くのは早かったようで、
就いて2週間後、先輩のちょっとした注意が
あのときの記憶をフラッシュバックさせ、涙がとまらなくなり、
夜には過呼吸となり、もう職場に行くことができなくなりました。
あの時耐えられていたなら今頃こんなことを書いていないでしょう。

さて再び実家に戻り、2、3違う病院を経て、
今度はまともな精神病院に入ることができました。
結果、ここの先生に救われることになります。

当時で覚えていることは「焦らなくていい」ということだけですが、
それが一番大切だと思います。

半年程度通院し、先生の勧めで1ヶ月入院し、
その後通院しながらその病院が経営する授産施設で2年近く働きました。
この2年の間に自信を取り戻すことが出来たと思っています。

失われた貴重な時期の3年間とは思いますが、
結果として精神的に成長できたのかな、と思います。

もちろんその間何も考えずに行動していたわけではありません。
焦りもありました。就職はどうすればいいのかという迷いや不安もありました。

ただ、こればかりは時間をかけなければならないと思いますし、
焦って就職した結果2週間で退職という出戻りも食らいました。

精神的な成長とは、その間に出会った思考があります。
それはブッダの思考でした

(宗教ではなく、あくまでブッダ本人の教え。
この回復期は宗教に嵌りやすい時期だから気をつけなさいと
先生に忠告されたので、特に注意しました。)

病院の先生の言葉を聴き、それを咀嚼し理解し、
そして授産施設で行動に移してみることも大切な時期だったと思います。

今ではもう怒られたり注意されることで
フラッシュバックすることはなくなりました。

たまにこう思い出しては、精神的に成長したなぁと思えるようになりました。

ちなみに薬は5年たった今でも、
飲んではいますがそろそろ止め時だと先生がおっしゃっていました。

逆に言えば5年経てば解決する病気、ということです。
この5年は、長いようであっという間だったような気がします。
焦らないことが一番です。

SAD発症から4年経過した今、販売の仕事に再就職をしています

私がパニック障害、社会不安障害(SAD)と診断されたのは、
丁度今から4年前の6月のことでした。

当時私は22歳、パソコン関係の仕事をしていました。

ある日仕事中に過呼吸のような症状、動悸、凄まじい焦燥感に襲われ、
思わず職場から飛び出してトイレにこもり
落ち着くのを待つしかありませんでした。

その後も過呼吸のような症状はなくなったものの、
突然襲ってくる動悸、叫びだしたくなるような焦燥感を何度も味わい、
たまらず内科の診察を受けました。心臓の病気かと思ったのです。

すぐに不整脈の検査やレントゲン撮影など
幾つかの検査を受けることになりました。

ところが検査結果を見た先生に言われた言葉は…
「うちではお薬は出せるけどあなたの症状を改善することは出来ない、
心療内科を受診してはどうか?」でした。

すぐに近くの心療内科の予約をとり、
カウンセリングや簡単な問診を受けた後、
社会不安障害とパニック障害であると診断されました。
仕事のストレスが原因だろう、とも言われました。

正直、目の前が真っ暗になるほどのショックを受けました。
精神病?通院が必要なのか?仕事はどうなるのか?
不安でいっぱいな気持ちでした。

担当の先生とも相談し、
SSRI抗不安剤を2種類飲み続けることになりました。

お薬を飲むと不安感や動悸は治まるものの、外に出るのも怖い、
安心出来る誰かがそばにいてくれないと不安…

毎日薬と薬を飲むための水をカバンに常備し、
いつ発作が起こるかと緊張する毎日でした。

だんだん外に出るのが怖くなり、
結局仕事を自主退職することになりました。

貯金も少なく、このまま病気が治らなかったら…
という気持ちで毎日が本当に憂鬱でした。

家族の支えがなければ自ら命を絶っていたかもしれません。
それくらい毎日が辛かったのです。

投薬を始めてから1月程度は何も変化はなく、
このまま病院に通っていて意味はあるのか?とも考えました。

投薬とカウンセリングを始めて半年ほど経過したころから、
だんだんと外での動悸、息苦しさが少なくなってきたような気がします。

1年半ほど治療を進めた結果、抗不安薬の服用はかなり減り、
薬を飲まなくても外出が出来るようになりました、本当にうれしかったです。

SAD発症から4年経過した今、私は現在販売の仕事に再就職をしています。
朝9時から18時まで人と接してばかりの毎日です。

今は全く発作は起こりません、先生と相談した結果、
もう薬は飲んでいません。通院もしていません。

お守り代わりに一応いつもカバンに抗不安薬は入っていますが(笑)

外に出るのも怖い、人と接するのが怖い、
そんな風に思っていたあの頃の自分が嘘のようです。

社会不安障害パニック障害は本当に難しい病気で、
なった事のある人にしかこの辛さは分からないと思います。

ですが、諦めずに治療を続けることによって
絶対に改善する日が来ると思います。

この文章を読んでくれたあなたが
笑顔で過ごせる日が来るように祈っています。

妊娠中のパニック障害で4年間引きこもり生活

私がパニック障害と診断されたのは
33歳の初夏お腹に三人目の子がいた時でした。

パニック障害と診断されるまでさほど時間はかからなかったのだが、
なんせ妊娠中の身なので投薬治療ができないとゆう。

投薬治療はお産の後にしましょうと頓服の安定剤が処方された。
これが当時の私には唯一の薬だった。

薬を飲むと一時的に眠くなり少しの間不安からは解放されるが、
薬が切れると時と場所を選ばず発作が起こった。

こうなると乗り物にも乗れなくなり殆ど外に出なくなってしまった。
無事お産を終え、薬をもらいになんとか病院へ行くも
授乳中は無理とのことで、またもや治療開始は延期。

その後、症状はますます悪化し、
子どもの学校行事にも参加できなくなってしまっていた。

一緒にドライブや映画に行きたがる子どもたちにごめんねと謝る日々。
学校行事を夫に代わってもらい迷惑をかける日々。

自分の存在価値についても考えました。

子どもの成長は見て行きたいので、死にたいとは思わなかったけど、
いつ死んでもいいやと思っていました。

そうやって家に引きこもったままようやく赤ちゃんの卒乳を迎えた。
子どもは1歳半、初めてのパニック発作から2年が経っていた。

やっと投薬治療開始、パキシルを処方してもらった。
すぐにとはいかなかったが、付き添いがいれば
近くのスーパーには行けるようになった。

もう少したって歯医者と美容室にもいけるようになった。
投薬開始から1年後くらいにようやく付き添いなしで外出できるようになり、
学校行事にも参加できるようになった。

徐々にできることを増やしていき、投薬開始から二年後にはパートも始めた。
その頃には乗り物にも乗れるようになり
今では98パーセント元の生活を送っている。

実は何を隠そう、治療を始めて4年経った今もまだ薬を飲んでいる。
今は薬の量も減っている。

でも以前のように、本当に治るのだろうか?とゆう心配はしていない。
だって7年前の私と比べると今の私は全然違うんですもの。

こんな日が来るなんて思ってませんでした。
なので必ず薬を飲まなくても発作を思い出さない日が来ると信じて
毎日を過ごしてます。少しでもお役に立てれば幸いです。

アダルトチルドレンで、極度の対人恐怖、嫌われることが怖いです。

私は20代の女です。
働いても、人が怖くてすぐにやめてしまいます。

アダルトチルドレンで、極度の対人恐怖、嫌われることが怖いです。
高校2年生で鬱になり、そこから7年間鬱に苦しみました。

23歳のころ転機があり、良きカウンセラーさんに出会え、
そこで、鬱が和らぎ、今では鬱はほぼよくなりました。

しかし、社会不安や対人恐怖、軽いですがパニック障害と、
これからやっと向き合っているところです。
自分に今起こっていることがだんだん分かってきました。

少しでも、同じようなことで悩んでいる方の参考になるように、
私の経験を書きますね。どうか、力になりますように。

私は、幼いころから、自分を出せない子供でした。
両親の仲が悪く、父は借金、浮気を繰り返し、
家に生活費を入れないような人でした。

母は懸命に働いていたため、今思うと、必死だったのですね。
余裕がなくいつも怒っているような印象があります。

母の懸命な姿に、子供ながら母を助けたいと思い、
わがままは言えませんでした。

甘えにいっても、邪魔くさそうにされ、
それを感じた私は余よけいに駄々をこねる。

愛情を感じたくて、抱きしめてほしくて駄々をこねても、
母は怒るだけでした。

母は私のことが嫌いなんだ。私が良い子じゃないから嫌いなんだ。
兄弟は上に3人いて、わたしは末っ子でした。

しかし、年が一番近くても8個離れているので、
物心ついたときにはみんな年頃で、友達と遊ぶということがほとんど。

家にもほとんどいませんでした。私が遊んでほしいとねだっても、
みんなあまり相手にしてくれませんでした。

そこで、いよいよ本格的に孤独を感じたのですね。
その時点でたった3歳ごろです。もう、生きていたくありませんでした。

(カウンセラーさんから聞いたのですが、3歳までが肝心らしいです。
3歳までに、安心感を得られなかった人は、アダルトチルドレンになり、
その後生きにくいと。)

誰も私に興味がない。私は誰にも愛されない。
周りから相手にされない私は、本当の自分を押し殺すようになりました。

それから、幼いころ私は、自分を愛してもらうために、
家の手伝いを進んでするようになり、
いつも笑って、元気で明るい良い子を演じました。

心では死にたいと思っているのに。

こんな自分だったら愛されるかな?と、嘘の自分を演じ続けました。
家族だけでなく、友達の前でも、本当の自分ではなく、嘘の自分。

本当の自分が出せないんです。

だって、幼いころ、本当の自分で生きていたけど、愛されなかったから。
だから、そのままの私では愛されない。
演じている私でしか、人前に出せないのです。

そんな生活をしていたら、本当の自分はどこかに消えました。
そして、感情もなくなりました。

でも、どれだけ消えても、やはり感情は心のどこかにあるので、
たまに気が狂ったように発狂します。

それもひとりで。なので、家族は何も知りません。
ある日、プツンと何かが切れて、うつ病になりました。

そして、良きカウンセラーさんと出逢い、
2年目にして、回避性パーソナリティ障害と分かりました。

人格が分裂することもあります。押さえつけすぎた本当の自分、
本当の感情が、コントロールできなくなるとヒステリーを
起こしたように出てくるのです。

あまりにもひどい時はなにを言ったか、何をしたか覚えていません。
そんな私ですが、薬では何も解決しないと、身にしみて感じました。

7年間薬を飲み続けましたが何も解決せず、少し高いと感じましたが、
個人のカウンセラーさんに思い切って相談すると、
出会って1か月で断薬に踏み切り、成功し、
半年で鬱症状が一気に改善に向かいました。

時間はかかりますが、間違いなく、
精神疾患の原因がはっきりすると思います。

私のカウンセラーさんは1時間5000円です。
1回無料お試ししてみて、相性がいいと感じたので、週1でお願いしました。

働いていないのでお金はありませんでしたが、
働けるようになったら返すと説得し、母に借りました。
今では、決して高くないと断言できます。

薬だけでは、症状は改善しません。
どうか、カウンセラーさんを探してください。

これを読んでいる方、たくさん苦しんで傷ついて今まで生きてきたと思います。
本当に本当に、生きてこれたことがすごいと思います。

どうか、自分を幸せにするような道に進んでください。
私もまだまだ、戦っているところです。

一緒に、この生きにくい世の中、生きていきましょうね。
いつか必ず、出口があると信じて。

過敏性腸症候群で常にトイレに行けない事を恐れ、極度の緊張感から下痢を繰り返しました

私は適応障害と心療内科の主治医から伝えられるまで、
漠然と心と体の状態がおかしいという感じでした。

社会にでるまでの10代、特に中学生の時は過敏性腸症候群に悩まされ、
常にトイレに行けない場合どうすればよいのだろうという
極度の緊張感から下痢を繰り返しました。

当時は過敏性腸症候群という言葉すらも分からずに
苦しい日々であったと思い出します。

今は過敏性腸症候群の症状は改善されましたが、
しかし現在でも外出時のふとした時にトイレに行けなければどうしよう
という緊張感を感じてしまう事はあります。

大学卒業後社会に出て会社勤めが始まりましたが、
ある時急に夜全く寝付けられない状態が何日も続き、
日中は眠気の影響で仕事にも支障が出ていました。

幸い私の異変に何となく気がついた上司から
何かあったのかと言われ眠れないと説明しました。

結果、上司また同僚のアドバイスで心療内科の通院を行い
睡眠導入剤を処方してもらいました。

不眠の症状は10年以上前から続いてますが、現在も薬は服用しています。

その後事情により最初の会社を退職し、別の仕事に就きましたが、
昨今の雇用情勢もあり正社員に就けても長時間労働で心身が疲労し、
現在は非常勤の仕事を繰り返しています。

新しい仕事、特に未経験の業務を一から覚える場合
自分は人一倍時間がかかります。

そうしたプレッシャーや仕事覚えるのが遅いと言われたりもしました。

転職を繰り返しているうちに新しい仕事に対して極度のプレッシャーの結果、
朝の出社前に嘔吐したり食欲不振、不安などの要因が重なり
適応障害となり現在に至っています。

今はストレス社会で多くの人は心身共に
常に様々なプレッシャーを抱えていると思われます。

私は何とか早い段階で病院を受診出来ましたが、
適応障害うつ病などという病気はつい一人で
抱え込み悩んでしまう傾向
にあるのではと思います。

精神の病は自分の家族や話が分かる人に
自分の辛さや苦しさを話せる環境が一番大事です。

ストレスという物は完全に無くす事は不可能です。
そのためにはストレスを最小限に抑えるような環境作りが重要です。

自分の心と体とどう向き合っていくか短い文章ではありましたが、
自分の体験が少しでも役に立てれば幸いです。

PTSDで8年たった現在も、男性の大きな声には恐怖で震えます。

体調不良で会社を2日おやすみして出勤した際、
いきなりの剣幕で事実上の社長から呼び出され雇用形態の変更を告げられました。

その際、私は雇用契約があるのでそれは受け入れられないと告げると、
さらに激高して理不尽な言葉を浴びせ続けられました(恫喝)。

身長が高く、体格の良い男性からの威圧的な言葉に私はついに言葉を失ってしまい、
出てくるのは涙だけでした。

体中の震えがとまらず、涙もとまらず、いったん外へ出て
人事の担当者が出勤してくるのを外で待ちました。

人事の人が到着したら少し安心しましたが、
私の姿を見て何があったのかをすぐに察してくれました。

とりあえず、今日はいったん家に帰ったほうがいいとのことで帰宅しました。
何が起きているのかわからず、すぐにベッドへ倒れこみました。

そして、夕方ふたたび実質的な社長(恫喝してきた人)から電話があり、
輪をかけた恫喝が延々と続きました。もう、恐怖の電話です。

そして、私は言葉が話せなくなっていました。
そのことでさらに恫喝社長は怒りが増してきたらしく、
長い間話し続けていた記憶があります。

家族が帰宅してから、私はようやく涙ながらに事の経緯を
簡単に話すことが出来ました。

そして、人事担当から電話があり、これからのことを話しました。

もう、職場復帰することは絶望的だと感じましたが、
あまりにも理不尽で、私は何の落ち度もないのに、
このようなことになったことが納得できませんでした。

言葉が正常に話せなくなったことで、診療内科へ行き、
事の経緯を話し診断書をいただきました。
診断名はPTSD(心的外傷後ストレス障害)でした。

その診断書を提出したら、再び、恫喝社長から電話がかかってきました。
電話は留守番電話にして一切出られないようになりました。

8年経過した現在も電話(携帯電話は大丈夫です)は留守番電話にしたままです。
6年半、お局さまと称するひとからの執拗ないじめやセクハラパワハラにも耐え、
まじめに仕事をしていればいつかは報われると思ってきた結果が
このようなかたちになりとても残念でした。

医師からは訴訟を起こしますか?と尋ねられましたが、
当時の私の状態はその頃そこまでの気力が全くありませんでしたし、
満足に話すことさえ出来ない状態だったので、理不尽な自主退職となりました。

8年たった現在も、男性の大きな声には恐怖で震えます。
女性の(特に年配の人)話し声も苦手です。

現在は、少量の安定剤を症状の悪いときだけ服用するようになりましたが、
いまだにあの時の衝撃を忘れることが出来なく夢にも出てくることがあります。

パニック障害が再発して一年になりますが、まだ電車や飛行機には乗れません

15歳の時から働いていたのですが
急に仕事中に急に動悸めまいに襲われました。

母に言われて心療内科を受診したところパニック障害と診断されました。
仕事と学校に通う毎日で休日も無くストレスが溜まっていたのだと思います。

診断されてから職場を変え、多めに休みをとりながら学校に通う生活に変えました。
それでも症状は良くならず動悸、吐き気などが続き外食や電車などで
移動するのは苦痛でしたがなんとか学校も卒業し働き始めて20歳くらいで
断薬に成功して外食などにも積極的に行くようになり仕事もハードな仕事に就いていました。

病院にも通わなくなり5年ほど経った頃に体調不良で数回おう吐したことから再発。

外食、電車、外出が憂鬱になりました。
そして結婚を控えていたのでマリッジブルーなども重なりだんだんと悪化。

実家を出て新婚生活から4か月してから毎日食欲も無くなり
母親や主人と話すだけで涙がポロポロとこぼれるように。

スーパーへの買い物、近所に犬の散歩ですら行けなくなり
母親に言われて引っ越した先で心療内科を受診し、再び薬を飲むようになりました。

しばらくは外食や外出も出来なかったのですが
薬を飲み始めて半年後には外出できるようになりました。

自分では頑張って外に行かなければと思っていたのですが、
病院の先生には、「行けるときに行けばいい。
気分がのれば出たらいいし今は症状が出ないことを優先すること。」

と言われてからとてもらくになりました。

病院に通い一年も経たないうちに減薬が始まりましたが
変わらず外食などにも行ける毎日になり動悸や吐き気もなくなりました。

たまに体調が悪かったりすると症状が出ますが吐き気止めなど
頓服を飲めば収まるようになりました。

心の病気はなった人にしかわからなく周りの人には理解されないかもしれません。
私も最初は義理家族には隠していましたが今はオープンにしています。

結構周りにいるようで私の体調も気遣ってくれます。
外でしんどくなったらどうしようと考えてしまうのもよくわかります。
そんな時は出なくてもいいんです。

もっと自分中心に考えればいいのです。
きっと周りの人に気を使ってしまい疲れているのだと思います。

現在私も治療中で再発して一年になりますがまだ電車や飛行機には乗れません
ですがなんとも思わないようになりました。

乗らなくてもいいや、車があるからと思うようになり
きっと乗らなくてはいけない時になれば乗れるだろうと。

ですが週に一回の病院だったのが月に一回薬をもらいに行くだけになりました。
まだ仕事に出る気にはなれないので一年以上専業主婦をして毎日犬とだらだらしています。

気ままにゆっくりと治せばいいのだと思います。
年数はかかってもきっと今より症状が回復します。

実際に私も断薬した経験もありますし今も症状はでていません。
そしてこういう病気になってから人の気持ちを考えるようになり
人に言葉をかけるときも相手もことを考えて話すようにもなりました。

きっと悪いことばかりではないのです。
ゆっくりとのんびり治していきましょうね。

人と関わることが出来ない極端な被害妄想です

わたしは2012年の春に適応障害と診断されました。
ほかにも鬱のケがあると言われました。

それから投薬を続けております。
具体的には、人と関わることが出来ない極端な被害妄想です。

人と話していると被害妄想が膨らむ為、仕事が出来ません。
オフィスワークですら、対人関係が少なからずあるので、出来ません。

そこでわたしはインターネットを用いた仕事に変えました。
するととても楽になりました。人と会わなくていいからです。

また、被害妄想が激しいという点に関しては、認知行動療法を行いました。

これは、例えば誰かに挨拶をして無視されたとします。
そこで「わたしのことを嫌ってるんだ」ではなく
「たまたま聞こえなかっただけなんだ」と思い込むようにするといった療法です。

こうすることによって、強張っていた意識が徐々に解きほぐされていきました。

一度や二度では効きませんが、毎日の思考の変化により、
徐々に明るさを取り戻していったかと思います。

わたしの場合は被害妄想が激しいのは統合失調症ではなく、
パーソナリティーだそうです。

薬に頼らず、自らの考え方を変えるしかなかったのです。

あとは、本屋さんで買ってきたリラックスできる自己啓発本などを読みました。
悪いものが体内から抜けていき、明るく優しいものが体内に入っていくことを
イメージしながら深呼吸を行うというものでした。

はじめは半信半疑でしたが、これが効果テキメンでした。
わたしはかつての明るさを取り戻すことが出来ました。

急いでも病気は治りません。ゆっくり確実に治すことです。

わたしは仕事をインターネットを用いた仕事に変え、
認知行動療法と深呼吸を始めてからだいぶ楽になりました。

体の不調の原因が分からず、ドクターショッピングを繰り返し、心療内科で「過剰適応障害」と言われました

私が、最初に感じたのは“体の不調”でした。

一番最初が“目眩”そして、“異常な肩こり“、”胃腸障害”等、
きりがありませんでした。

何故なのか分からず、ドクターショッピングを繰り返しました。
MRI、MRA何度撮ったでしょう。

腰痛も酷くなりました。

結果はいつも“異常なし”です。
病院もなす術は有りません。

でも、自分自身は、ツラくてしょうがないのに・・・
そして心療内科にたどり着きました。

「過剰適応障害ですね。」と言われました。
仕事場でも、友達関係でも、子供の頃から、頼まれたら断れない。

その場を楽しませなくてはと思ってしまう。

仕事で成果をあげて、認められたい。
直ぐに、友達になれる社交的な明るい人だと思われたい。

等、それもあげたらきりが有りませんでした。
初めて指摘された、自分の性格でした。

それまで、そうすることが、良い事だと思っていました。

断るエネルギーよりも、少し無理してでも、
他人に合わせえる方がマシだと思っていたのです。

残業付き合ってと言われて、断って「冷たい人」って思われるより、
疲れてても「助かったわ~。やっぱり貴方に頼んで良かった。」と言われた時の
達成感がたまらないと勘違いしてたんです。

本当の私は、そんなに強い人間ではなかったのです。

数十年の無理が、一気に吹き出して“体の不調”と言う形になって襲って来たんです。
それでも、薬を飲んで頑張りました。認めたくなかったんでしょうね。

そして、遂に寝込む所まで来てしまいました。

外に出れなくなって、仕事を辞めた当初は、
自分は役に立たない人間になったと、死にたいぐらいでした。

2年近く経って、今やっとこうしてパソコンにも向えるようになりました。

薬の量も少しずつですが、減ってます。
最初は、薬を飲む罪悪感も有って、勝手に減らしたりしてました。

先生にも家族にも怒られましたね~。

根本的な性格は、なかなか変えられませんが、「ボチボチ行こう」
「人の目は、そんなに厳しくないよ」「まず、自分の気持ちに正直に。」
「他人じゃなくて、家族を大切に。」って言いきかせながら生活してます。

いつか、薬を飲み忘れる日が来る事を信じて。